イタリア旅行 暮らして見る旅【イタリア日記・第2回】
第2回 ヴェネチアを経てヴェローナへ
さすがにそのころには何かしなくてはと思い、宿で電話帳を借りるがイタリア語が判らなければ引く事が出来ず、恥をしのんでフロントでイタリア語学校を紹介してもらった。
全くイタリア語はできないのですがと半端な英語で電話をかけると翌日来るようにとのこと。行ってみるとなんといきなり試験。話が違うと少々むかつきながら答案用紙を見ると何も判らない。 これは物理の試験以来だと、嘆息しながら名前だけでもと思うが、姓と名をどちらに書くのかも判らず適当に。やっと国籍と思われる項を見つけ馬鹿なことにJAPANと書いて提出。同じく試験を受けた10人くらいが次々と呼ばれて私は最後。中年の女性と若い女の子にイタリア語で話かけられるが、もちろんチンプンカンプン、だからイタリア語は全く判らないといと予め云ったのに。結局あなたに適当なクラスはないといわれ、個人レッスンを翌日から1日4時間申し込む。
今まで必要に応じて勉強した事が無かった事実に気づく。なぜなら教師の一言一句が吸い込むように頭に入り、でもすぐ忘れるが。4時間があっという間で、むかし授業中に眠気と戦っていたのが嘘のよう。
でもナポリのロマンティックな海岸の� �ラスで動詞の活用などを覚えなければならず、やはり準備は必要だったのではとちらっと考えるが、期限のある旅でもなし、これもひとつの贅沢と考えることにする。
日本人は20代の女の子数人と得体の知れない中年の男性がひとり、食事をおごって情報を収集する。ナポリ人はみんな、ナポリは危ない所に行かなければ決して危険な街ではないという。しかし車のハンドルに円盤状の盗難防止装置がついていたり、ホテルの門も厳重でテレビのモニターで確認してから開けてくれるし、危ないところは中心街にも散在していてそれはどうかなと思う。しかし危ないからこそまたとても魅力のある街なのである。学校がホームステイ先を世話してくれることになった。ちょうど居あわせた同じく学生の、60代後半にみえるイギリ� �人が同じアパートに住んでいるとのことで連れていってもらう。彼はフランスに近い島に住み、ボルボに乗りクルーザーを所有しているなど裕福そうな人だが、会話になれるために敢えてホームステイをしているのだそう。キリストのような風貌の人である。
都市の空港は、どのように取得する街の中心にあるアパートの6階で学校にも近く、ナポリの街のようにかつてはどんなに豪奢だったかと思われるが、うらぶれた住まいである。 私にあてがわれた部屋は10畳以上で、小さなバルコニーもあるが、家具はぼろ机と大きなソファ、アンティークの素晴らしいタンスとグレーのスチール棚があった。他の家具はいいとしてソファで休むのは痛めている肩のこともあるしどうかなと思うが、とりあえず借りてみて無理だったらまたホテルに戻ればいいと考える。
昔の栄華をしのばせる鏡張りのアンティーク家具や猫足のソファのある居間は、入ってはならないとのこと、何だかみじめである。8畳くらいのダイニングキッチンがくつろぎの場でテレビが置いてある。バスルームはキッチンについていて、シャワーとトイレ、洗面器は雑巾も洗えるようなもので、早い話が使用人用のものとみえる。かなりショックであるが、あの貴族風の英国紳士でさえ耐えているのだ とあきらめる。初めてキッチンが使えるので喜びいさんでスーパーで買い物をするが意外に高く、レシートをよく見るとバターが一桁多く記されていてぼられたことに気づく。ああまたか。
学校の先生とも仲良くなり中華料理をいっしょに食べにいく。ここの中華料理はイタリア料理よりも安く、味はまあ贅沢云えないというくらいの感じ。彼女はもうすぐ結婚するのだが彼はナポリには仕事が無くミラノで働いていて、結婚後も別居になるとのこと。イタリアの南と北の経済格差を現地ではじめて耳にした。
家主のマウロは前の住人から聞いたところによるとゲイとのこと。陽気というよりも繊細で夕方になるとシャワーを浴び香水のにおいをただよわせて、足のさきまでおめかしをして鼻歌を歌いながら出かけて行く。洋服� �屋を見せてもらったら3畳大の部屋が洋服や靴でいっぱい。男性はみなお洒落なのか街でも紳士用のブティックが多く、気に入って買いたいと思っても男物で残念という経験がしばしばである。マウロは一度パスタをごちそうしてくれたが、味はツナとトマトソースだけなのに絶品で、ゆで加減は座ってからも10数えるまで待つというくらい計算されていて今だもって忘れられない。
この家はホームステイというよりも間貸しで、サンカルロ劇場オペラのプリマドンナの代役という韓国人のソプラノが、客人格で滞在していて彼女は専用のバスルームを使っていた。後は例のイギリス人と日本人のコックであった。
トラップファミリーロッジがあり、有名なfoundresている人?6階までのエレベーターは、硬貨を入れないと動かず、持ち合わせが無くて徒歩でのぼったときには、1階は0階にあたるので7階分になりこのときばかりはイタリアのシステムに腹立たしい。
ナポリを発ってベネチアに向かう。友達が紹介してくれたイタリア人男性と結婚して20年来住んでいる日本人のところにお世話になる。メストレという本土からベネチア市に渡る橋のある街に住んでいた。庭の広い大きな家で緑豊かな郊外にあった。
翌日ベネチアにゆき終日バポレットという電車やバスがわりの連絡船を乗ったり降りたり。5月はじめのベネチアはそれほど観光客で混み合っていず、海の色は緑かトルコ石かアクアマリ� ��かと猫の目のように変わり、この世のものとは思えず陶然とする。翌日は日曜日、途中で昨日買った地図を忘れたことに気がつくが、また買うにも売店がお休みでまあ何とかなるだろうと大胆にあちらこちらをめぐる。空はあくまでも青く5月の太陽は頭上に輝き傾く気配もない。時計を見ると午後7時、信じられないような明るさでどんどん船を乗り継いで8時半すぎにふと気がつくと陽が急速に落ちてきている。とたんに何処に居るか、ベネチアの駅までどのくらいかかるのか、最終の船は何時なのかと我に帰る。もう何時間も船をのりついでいるので、同じ位かかるとすると真夜中になりかねない。最終に間に合わないとすると何処に泊まろうと不安がこみあげた。
この間ナポリの貧民街でさんざんこりたはずなのにまたこの有 様とわが身を呪う。ところが来た船に乗ったところ、あっけなく1時間もかからずに駅まで到着。なんと運良く島の沿岸を回っていたのであった。こういう結論になるのでまた性懲りも無く同じようなことをするんだろうなあ。
今度は旅ではなく住んでみようと準備のために5月中旬に帰国した。
日本に戻りナポリに住みたいというと、有識者と思われる人は皆それだけは危ないからやめた方がいいという。1ヶ月ほど銀行の国際カードを作るなど用意を整えて、6月18日に友人宅のあるミラノに向けて再び出発した。この友人宅には前にもお世話になり、何処に行こうかと滞在しながら考えあぐねていたのだったが、4月とはいえあまりの寒さに暖を求めてナポリに行ったことなど考えながら。
どのように完璧な男を取得する今回のミラノは暖かいというよりも暑くなっていた。 ミラノの年若い友人は私の行動に興味深々で今度は何処にと聞くので、あまり深い考えも無く3,4年前にテレビで見たヴェローナの野外オペラを見に行きたいとつい言ってしまう。 しかし、言ってしまうと早く行きたくなり早々にミラノを発つことにした。 実は、友人のひとりがヴェローナはとても良い街だといっていた為、先回電車で通過した時に気をつけて見てはいたのだ。しかし、実際はなんの変哲もないただの駅でがっかりして、訪れた当初は内心ではほんの1週間か10日程度のつもりだった。それが4年もいることになろうとは。
この時期のヴェローナは、野外オペラで世界中から観光客が集まる。その為ホテルは超満員で、何とかとれた3つ星ホテルの部屋のなんと狭いこと。4畳半くらいで特大トランクはしっかり平らに開けないほどの狭さなのに結構高い。でも街を歩いてみたら全体的にどこか程よい大きさで、大東京に疲れた身にはこのようなヒューマンスケールの街も悪くは無いかもしれないと思い、しばらく滞在しようかと思い始めた。
翌日、野外劇場夏のオ� ��ラシーズンオープニングのアイーダは良くも悪くもカルチャーショックであった。まずオープニングの日のため指定席も自由席も売りきれなので、9時15分に始まるのにダフ屋からチケットを買って7時前から並んだ。西日の照りつける暑さにまず閉口。やっと開場になって列が進み始めても、席のところに行くまでに1時間はのろのろとかかり、場内に入ったところもうすでに満員でどうしようもない。しようが無く通路に座っていたところ、隣の人の足が下の席のドイツと思われるご婦人の背中だか胸だかにあたったとかで。そのご婦人は相手が足を除けて立ち去るまで自分は立ったままで座らないと怒りまくり、恐ろしくなって場所を替えて何とかちぢこまりながらも座れたのだった。
たしかアイーダには本物の象さんが出てくるのよね、などと舞台を見渡すと、何とブルーのピラミッドが抽象っぽくそびえている。あとで聞くと、この年から新しい演出に変わったそうだ。でも衣装も舞台もブルーとシルバーで統一され衣装はとくに未来的でうっとり。この2万人は入るという野外円形劇場のほぼてっぺんに居るのに結構声のひびきはよく、また自由席の観客は仏壇の小ローソクのようなものを渡され灯しながら開幕を待ち、序曲がおわるころにはローソクが尽きるという演出に感動した。風がふくと消えるので周りの灯をもらったりして和気あいあいになれるのも相乗効果と思われた。第二幕には舞台にプールが出現、踊り子が飛び込んだり、カヌーが何艘も漕ぎまわったり と、さすが野外ステージでなければと思われる演出。
この年の出し物は、他にカレーラスがドンホセを歌うカルメン、ドミンゴのリサイタル、ハリウッド映画的な舞台装置のメリーウイドウ、椿姫、蝶々夫人などであった。 蝶々夫人は布に映写をするという斬新な試みだったが、あまり評価はされなかったようで、翌年からプログラムからは外れてしまったのが残念だ。しかし蝶々さんが切々とピンカートンに語りかけ祈る仏像のようなものが、布袋さんとも怪物ともつかぬ巨大な像で改めて文化の差というかオリエントの遠さを感じた。
後で通うことになった学校の同級生に、ヴェネズエラ人の主役級テノールと付き合っているイライザという女性が居た。 ある日のこと。彼女に家族席に招待してもらって楽屋までついていくと、そこはあのボッチェッリの楽屋の隣で1メートル程のところに当の彼が居た。でも残念ながら、盲目の彼には私は見えなかったのだけれども。
そのあとテノールの彼とイライザと3人で円形劇場アレーナの広場を横切っていくと、広場を取り囲むカフェから'よう、グランデ テノーレ'と声がかかって家族のように手を振ってお辞儀をして盛大な拍手で送られた。そしてうらぶれたバールでビールを3人で飲んだのも不思議な思い出。その後彼らとは会う機会も無く、気になっている。
第3回 ヴェローナ イタリア語学学校 へ続く・・・
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