セカンドクラスの添乗員 読者旅行記 上を向いて歩こう・南アメリカ
今日は、この旅行のハイライト・マチュピチュ遺跡。昨日の夜は高山病で夕食にも出て来なかったおばさんたちが、朝ロビーに全員集合したのには驚いた。後で聞いたのだが、夜中には「酸素をちょうだい」のおばさま方からの電話攻勢で、添乗員Sさんはとうとう一睡もできなかったとか。でも不思議なことに、朝5時半集合のロビーにはぴんぴんして来ている。マチュピチュは、クスコよりも低い2280メートル。しかも列車でゆっくり移動するので、クスコでひどい高山病の人もマチュピチュに着くころには治っている場合が多いとか。また帰りも徐々に標高が上がるので、またぶり返す人は少ないという。恐るべき人間の適応力である。
バスでマチュピチュの駅へ。バスは、駅の横からホーム近くまで直接横づけされた。このあたりにはマーケットがあるはずなのだが、早朝なのでわからない。着いたところは、日本の昭和30年代のようなところ。バスを降りると、ディーゼル機関車の音と軽油の匂いがする。懐かしい駅の匂いのような気がする。これでお弁当でも売りにくれば、まさに日本の駅の朝。
我々が乗るアウトバゴンという列車は、赤と白の日本でいう急行色の車両だと思っていたが、青い。ブルートレインと同じ色の車両。このペルーレイルは何年か前に民営化されていた。この新しい車両は今年の5月に導入されたとか。天井の横もスーパービュー踊り子号のようにガラスが入っていて、かなり上まで視界が広がる。でも、私は古い車両の方に乗りたかった。その方が情緒があってよかったのでは、と思った。車両は6両で、各車両同士の貫通の通路はない。後で聞いたところによると、貫通路を作ると途中の傾斜やカーブで危険なのだ。車両の後ろにはトイレが付いている。もちろん、この車両の中にも酸素ボンベが用意されている。
各車両には、給仕にあたる男性と女性が1人ずつ乗っている。男女共すらっとした美男子と美人だ。この男性が車掌も兼ねているのだと思ったが、実際は食事の給仕と社内販売の仕事で、男性の方はドアの開け閉めもしていた。切符の確認には、途中で別の人が乗り込んできた。多分、最初からどこかの車両に乗っていたのだろうが、貫通路がないので外から入ってくるのだろう。
アジア最上位モデル
途中、3回ほどスイッチバックする。私は、テレビの「世界の車窓」からを見ているような気になっていた。ナレーターの石丸謙次郎さんの声が聞こえそうだった。この後、「ニュースステーション」を見なくては、とまで思った。スイッチバックをするたび、外のポイントのところにいるおじさんが同じ人のようだ。駆け上がって来るのかと思ったが、よく考えてみると、進行速度がゆっくりなこの汽車に飛び乗っていればいいのだ。評定速度はたった33キロである。これでは自転車並みの速度だ。
坂を登り始めると、付近の家をかすめるように進んで行く。しばらくすると夜も明けてきて、クスコの街がパノラマのように見えてきた。統一された屋根の色が美しい。旅行前、マチュピチュはクスコよりも標高の高い所にあるイメージだったが、マチュピチュの高度は2280メートルでクスコよりも1000メートル以上低い。
クスコの街が見えなくなったころ、朝食が配られた。他の人たちは飛行機と同じように前の席の後ろにトレイがついているのだが、私はちょうど出入り口のところだったため、トレイがなくトレイを手に持たなければならなかった。サーブされたのは、サンドイッチと果物。飲み物はコーヒーや紅茶の他に、もちろんコカ茶もある。車内は暖房の設備はないそうで暑がりの私でもかなり寒く、膝に予備のウインドブレーカーをかけていた。
クスコの街に別れを告げると、列車はしばらく高原のようなところを走る。ここだけの風景を切り取れば、日本の田舎とそう変わりがないようにも見える。遠くに見えるアンデスの山々がとても美しい。気がつくと、列車は谷の間を走っていた。この谷はウルバンバ川の渓谷。この渓谷は、インカ時代は黄金の谷と呼ばれていた。きれいに小石を積み上げた段々畑が残っている。この谷には、ずっとインカ道が通じているはず。体力があってこのインカ道をたどるトレッキングでマチュピチュに行けば、きっともっと感動するだろう。実際、インカ道のトレッキングツアーもある。川の途中には小さなダムがあり、水力発電所らしきものがあった。インカ文明の中に、突然、近代が出てきたような気がした。
先ほど給仕していた男女が、今度は車内販売でマチュピチュのマークの入ったTシャツや写真集を売る。車内販売は高いと聞いていたのだが、他の方は何か買ったようだった。
何日かは他のロブよりも優れている
アガリスカリエンテスの1つ手前の駅からは道路がなく、移動手段は鉄道しかない。あのバスはどうやって持っていったのかという疑問が生まれる。春日三球・照代の漫才「地下鉄の車両はどこから入れたのか」に通じる。この疑問の答えは簡単だった。この鉄道は朝の早い時間と夕方しか旅客列車は通っていない。その空き時間に貨物列車もあり、バスは貨物列車によって運ばれたのだ。ガイドKさんはいつも簡単に答えてくれた。
このアウトバゴンの終着駅、アグアス・カリエンテス駅に到着。駅は思ったより立派な駅舎(この駅舎はアウトバゴン専用で、普通の列車が着くのは別の場所にある)で、時計を見ると午前9時45分だった。定刻よりも15分遅れだが、この国ではベストに近いのではないか。列車を降りて駅前に集合。ここからバスに乗り換える。列車を降りる前にガイドKさんから、周りのお土産屋は見ないように、と注意があった。バス(マイクロバス)にすぐ乗らないと、次の運行がいつになるかわからなくなってしまう。素直な私たちは、バスの乗り場まで周りに目もくれずに歩いた。
バスは何台もとまっていた。前のバスから順に乗っていき、満員になると順次発車していく。我々の団体も1台に固まって乗ろうとしたが、何人かの外国人(我々もここでは外国人なのだが)のために2台に分かれてしまった。バスはしばらくは渓谷の脇の道を走ったかと思うと、登り坂のヘアピンカーブの続くところになった。ここがマチュピチュの「いろは坂」ともいうべきジグザグ道で、ハイラムビンガムロードと呼ばれる。マチュピチュを発見した当時エール大学助教授のハイラム・ビンガム氏に因んでつけられている。ビンガム博士はインカ最後の都の「ビルカバンバ」を捜していて、偶然この空中都市を発見した。1911年7月のこと。ビンガム博士は死去するまでマチュピチュをビルカバンバと思っていたようだ。後に、ビル カバンバは別の場所で発見された。
舗装されていない道で、ほこりを巻き上げながらバスは登って行く。バスの中はとても暑かった。なぜか日差しも強いように思った。道はでこぼこが結構あり、その度にお尻が浮いてちょうどお尻のマッサージをしているようだ。数日前の、コルコバードの丘の下りのときを思い出す。段々とウルバンバ川の渓谷が小さくなっていく。アグアス・カリエンテスの集落が豆粒のように見える。
"男を殺すためにどのように"
マチュピチュの入り口に到着。ここには、マチュピチュサンクチュアリロッジがある。山頂唯一のホテル。ここで荷物を預け、トイレを済ませる。もちろん有料トイレである。遺跡内にトイレはない。入場券をもらい、ホテルの横の階段を登る。入り口は、何の変哲もないよくある観光地の入り口。そこから階段と登り坂を少し上がっていくと、マチュピチュの写真の定番の場所。遺跡の後ろの山、ワイナピチュを背景に遺跡全体が見渡せる場所だ。もちろん、みんな記念写真を撮る。ここまで来たのかという感激と達成感で胸がいっぱいになった。普通のカメラとパノラマ撮影ができる「写るんです」で何枚も写真を撮った。ワイナピチュの後ろに雲でもかかっているともっと劇的に写るのだが、などと考えた。
このワイナピチュはこの遺跡の象徴のような山だが、マチュピチュは実は「遺跡の後ろに控える山、老いた峰」という意味。一方、ワイナピチュは「若い峰」という意味、結構険しそうな峰だが、登山も可能。普通のツアーでは危険なので登らない。マチュピチュの方も登山可能。こちらは比較的登り易すそうだ。でも、通常のクスコからの日帰りツアーでは時間的には難しい。この遺跡全体から見えるのは段々畑、そして山の中腹にはインカ道も見える。インカ道はインカ帝国の動脈の役割を果たした道で、一説には3万キロもあったとか。その途中にはタンポと呼ばれる宿駅があった。ちょうど江戸時代の東海道の宿駅にあたるものだ。
遺跡の保存状態はいいと思ったが、これは発見当初から随分修復されているからだ。遺跡の中を歩きながら、ガイドKさんの説明を受ける。それぞれの部分の役割を聞くが、これはあくまでも後世の学者の想像であって、本当にそのような役割だったかはわからない。何しろ文字を残していないのだから。もう1つの不思議は、インカ文明には車輪がないこと。この遺跡だけでなく、他の遺跡でもあのような大きな石を車輪や滑車なしにどのように運んだのだろうか。
ガイドKさんの説明もよくわかったが、途中で大人数の人たちに英語でガイドしている人がいた。たまたま耳に入ったのは、マチュピチュを歩くと全部で「1700段」の階段を上り下りするというようなことだった。そのことをKさんに質問すると、「最初からそのことを言うと、皆さんめげてしまうから」と笑っていた。そして、とうとう最後までこの件には触れずじまいだった。
マチュピチュから発見されるのは、女性と年寄りの骨ばかり。このことは、いろいろなことを想像させる。1つは、インカの男はすべて戦場に赴き、女と老人が残ったということ。もう1つは、インカがここを放棄するときに移動に邪魔になった女・子供を殺し埋葬したということ。または、映画「アマゾネス」のような女傑集団の本拠だったのか。
帰国後に読んだ新聞によると、マチュピチュは「遺跡の滑落」の恐れがあると日本の研究者が指摘していた。1日1000人の観光客は多過ぎ、その影響もあるということだった。トレド新大統領の就任式典もマチュピチュでも開かれたが、その参加者を絞ったという。当地はペルー観光の最大の目玉でもあり、ペルー国民のアイデンデティを象徴する場所でもあるという。
山の帰りも、もちろん例のバスである。行きには気にならなかったが、ハイラムビンガムロードにはガードレールがほとんどなく、私が気づいたのは1ヶ所だけだった。バスの運転によほどの自信がある人たちか、それとも単に予算の問題なのか。この帰りには、「グッバイボーイ」の出現を心待ちにしていた。マチュピチュの紹介のテレビには必ず出てくる「グッバイボーイ」。バスがつづら折りの坂を下りていく角に先回りして「グッバーーィ」と叫ぶ。角々に先回りして降りて行く少年。少年がバスの中に入ってくると、みんなチップを渡す。彼らの親はこのバスの運転手であることが多いという。登りはちゃんとバスに乗っていくのだ。
帰りの列車で気づいたのだが、来たときと同じように、帰りも進行方向の後ろにトイレがある。つまり列車は双方向ではなく、ターンして動いているのだ。これはガイドKさんに質問した。1つ前の駅まで戻ると、そこにターンする設備があるとのこと。帰りの列車から見るクスコの夜景は本当にきれいだった。クスコの街では、世界遺産に指定されてから屋根の色と外にある電灯の色を統一しているのだという。南十字星も見えた。そうここは南半球なのだ。
クスコに戻った後の、フォークロアショーを見ながらの夕食。何組かのバンドが出てきて演奏する。ここは標高約3400メートルで、富士山頂よりやや低い。空気も薄いが沸点80度くらいと低く、地元では圧力鍋が手放せない。しかし、この晩の夕食のパスタはきしめんが延びたようで本当にまずいものだった。沸点が低いせいで、うまく茹でられなかったのだろうか。この夜は、高山病予防のため前日は避けた方がいいと言われていたシャワーを浴びる。特に具合が悪くなることはなかった。
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